自由にものを考える 

「自由にものを考える」とはどういうことなのでしょうか。当たり前のようで当たり前でない気がします。村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んで考えてみました。

興味深い一節があったので紹介します。

「自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。自分の肉体という限定された檻を出て、鎖から解き放たれ、純粋に理論を飛翔させる。論理に自然な生命を与える。それが思考における自由の中核にあるものです」

「ずいぶんむずかしそうだね」

これを読んで一瞬あぁなるほどと思いましたが、考えれば考える程、よくわからなくなっていきました。そもそも自由というのはどういう状況なのか。自由になるためには、何かしら束縛される何かが必要になってきます。

「どんなことにも必ず枠というものがあります。思考についても同じです。枠をいちいち恐れることはないけど、枠を壊すことを恐れてもならない。人が自由になるためには、それが何より大事になります。枠に対する敬意と憎悪。人生における重要なものごとというのは常に二義的なものです。」

「枠」を意識して初めて「自由」という概念が生まれるという風に解釈しました。そして「自由にものを考える」とは、この「枠」を取り払って思考することなのかなあと思いました。この世の中には様々な「枠」が存在しています。気をつけなければその存在に気づかずにがんじがらめにされていることもあります。そんな時には、物事を少し遠くから眺めてみる、一歩引いて考える姿勢が必要です。そうして初めて「枠」の存在を認識することができるのではないでしょうか。「枠」に対する敬意と憎悪。

人は自由を求める傾向がありますが、それはどのような「枠」からの自由を意味するのか。ただ漠然と現状を不自由だと思っている人は多いと思いますし、実際私もサラリーマン生活を送っているとそう思うことがよくあります。しかし、そもそも自由というのは何なのか。まずはこの世の中に溢れる様々な「枠」を認識することから始めなければならないことに気がつきました。

この小説を読んでふとこんな抽象的なことについて考え込んでしまったのでした。