水曜日のネコとカンパネラはどうでしょう

f:id:wakaiojisan:20171110163920j:plain

最近「水曜日のネコ」と「水曜日のカンパネラ」にはまっています。

「水曜日のネコ」はビールです。もともとインドの青鬼 というIPAが好きで、同じメーカーの水曜日のネコ を飲んだらこれもなかなか良かったのです。ふるさと納税でゲットしました。

水曜日のネコ 350ml×24本

水曜日のネコ 350ml×24本

 
インドの青鬼 350ml×24本

インドの青鬼 350ml×24本

 

 「水曜日のカンパネラ」は、日本の音楽ユニットです。

www.wed-camp.com

水曜日のネコを調べようと思ったら出てきたので、試しにMV見ていたら一瞬で引き込まれました。私はしばらく中国いたので全然知らなかったのですが、そこそこ有名みたいですね。2012年~2017年の情報がすっかり抜け落ちています。

ボーカルのコムアイの独特な声、ダンス、雰囲気もさることながら、作詞、作曲、ミュージックビデオいずれもクオリティがとても高いと感じます。

コムアイは、私が中国にいた時に仲良くしていたカラオケのお姉さんにとてもよく似ています。何よりもそれが私の心をつかんで離さないのです。

一回一休さん聞いたら、頭の中がずっと一休さんになってしまいました。

一休さん ありがとサンキュー

一休さん おつかれさん

一休さん ありがとサンキュー

一休さん ひとやすみしていこう

これは「さん」「きゅう」という押韻がよく効いていて、人の頭に残るように設計されています。よくラップとかでも韻を踏んだりしているのを見ますが、韻を踏むって昔からあって、それは今でも脈々と続いています。

進化的な側面から見れば、人間にとって言語の形式にこだわったり、韻を踏んだりすることは必要だったということです。そうでなければ、進化の過程でこれらは淘汰されているはずだからです。しかし、私たちの身の回りには予想以上に韻が存在しています。なにも詩やラップだけの世界ではありません。

大学の頃からずっと不思議でした。英詩と漢詩においてなぜ脚韻があるのか。脚韻とは、句末に類音や同音を繰り返すことです。全く言語が異なるのになぜ同じような手法が採用されているのだろうか。

恐らく人間がそのような音の響きや連続性を好んだ結果なのでしょう。そのような種が今でも生き残っているということです。

学校で学んだ「春暁」という漢詩も脚韻があります。

春眠不覚暁

処処聞鳴鳥

夜来風雨声

花落知多少

「暁」「鳥」「少」は、音読みすれば多少雰囲気は分かると思います。このような四句からなる詩を絶句といいます。私もまさに昨日絶句してましたが、一句が五字だと五言絶句となります。学校で習いましたね。

他に私が面白いと思うのは、頭韻です。頭韻とは、連続する単語が同じ音の子音または文字で始まることを指します。あまり知られていませんが、こちらの方が身近な存在です。

Micky Mouse(ミッキーマウス)

Donald Duck(ドナルドダック)

King Kong(キングコング)

Coca Cola(コカ・コーラ)

Intel Inside (インテル入ってる)

「Intel Inside インテル入ってる」は最高傑作だと思います。

ダジャレみたいな例ですが、私が学生の頃にはまったのはこんなものもあります。ニュースランキングとかでよくあるやつです。

「相武紗季、結婚はだいぶ先」

ダジャレと韻は紙一重です。違いは、ダジャレは母音も子音もいっしょなのに対し、韻は、母音が合っていればいいそうです。

いずれにせよ、同音の繰り返しに興味を持つということには変わりはありません。

このように言葉の音の持つ威力にも目を向けてみると、面白い発見があるかもしれません。芸術の秋、みなさんの気持ちを爽快なライムに乗せてみてはいかがでしょうか。気持ちがすっとするかもしれませんよ。

あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。

引用:草枕より