みなさんは「言葉にできない」瞬間に遭遇したことはありませんか?
普段当たり前のように使っていることばですが、これはよく考えればとてつもないツールです。使い方によっては、ときに人を幸せにさせ、ときに人を不幸にさせる言葉。言葉は私たちの考えている以上に、私たちの思考に影響を及ぼしています。
私たちは言葉を使って、世界を切り取ります。抽象的なものから具体的なものまでこの世界にある様々なものを言葉で切り取っていきます。そして、それらに名前をつけて人と人の間でその意味を共有できるようにしています。言葉のない生活は、今となっては想像がつきませんが、非常に不便な社会となるでしょう。しかし、その言葉も万能ではないことを認識しておく必要があります。なぜなら、言葉の切り口が人や文化によって異なるからです。そして、言葉にすることで失われてしまうものがあります。
言葉の使用者はその言葉の枠を超えることができません。つまり、言葉が存在しなければ、そのもの自体が存在しないも同然です。なぜなら、共有された言葉がないとそれを伝達することができないからです。だから、語彙が少ない人は自ずと表現できる世界が制限されてしまいますし、言葉自体が存在しないと、言葉で表現しようがありません。
例えば、日本では「雪」という言葉がありますが、雪が降らない国や地域では、雪という言葉が存在しなかったり、一方雪がたくさん降る場所では複数の雪の呼び方があったりします。つまり、言葉というのは、その地域や文化とも密接な関わりがあり、それによって表現されうる世界、世界の切り取り方が変わってくるということです。これは、どの言葉を使うかで思考もコントロールされてしまうということを意味します。
「雪」のように具体的なものを指し示すことができればまだいいのですが、抽象的な概念を指し示すときはさらに厄介です。例えば、「好き」という言葉。「好き」というのは、手にとって触れることもできなければ、これが「好き」なんだよと手のひらにのせて、相手に見せることもできません。だから、抽象的な言葉を使うときは、出来る限り他の言葉も使いながら詳細に説明しなければなりません。それでも「言葉にできない」ことはよくあります。
カップルであればだれしも遭遇したことのあるこの問題。
「ねえねえ、私の事好き?」
「好きだよ」
「そんなんじゃ分からないよ、ねえねえ、私のこと本当に好きなの?」
「。。。」
まさに言葉の限界を感じる瞬間です。同じ言葉を共有しているはずなのに、この解釈が人それぞれ異なります。よって、同じ言葉を使っていても通じないことがよくあります。相手によっては身体に電流を走らせるような「好き」という言葉も使うタイミングや相手によっては全く狙った効果を期待できない。
しかし、あまりにも嬉しかったり、悲しかったり、愛おしかったりするときは、それを言葉にすることはとても難しいと思います。この点について、以前本を読んでいて印象に残った個所を引用します。爆笑問題太田光の言葉です。
言葉とは煩わしいものである。思考するのに、言葉を使わなければならないとき、とてももどかしい思いがする。
一つの感情を言葉にしたとき、その言葉に収まり切れないどれほどの感情が失われるのだろう。デジタル時計が、一時一分一秒を表示した瞬間、一時一分二秒との間にある無限の時間を失うのと同じように、言葉と言葉の間に存在する無限の心を我々は失っているのではないかと思う。「楽しい」という一言で十分な感情などあるのだろうか?
(中略)
言葉は我々の思考を本当に限定する。しかし、その限定された世界を突破するのも言葉だ。
私はこの一節に共感しました。言葉にしてしまうと、言葉ですくいきれない部分が失われてしまうような感覚を覚えることがあります。しかし、同時に言葉によって世界が広がるということも事実です。
言葉は世界を創造しますが、一方で世界を破壊します。
考えていることや感じていることを言葉を使ってありのまま100%表現することはできません。もしかしたらほんの1%も言葉にできていないのかもしれません。しかし、自分の考えや感じたことを少しでも「言葉にできる」ように、少しでも世界を広げられるように生きていきたいと思う今日この頃です。