文章の書き方

日々こうして文章を書いていると、どうしても文章が書けなくてどうしようもない時がある。

キーボードに両手を乗せたまま、虚ろな目でモニターを眺め、固まる。

固まること二時間、一文字も書けずに、席を離れ、ランニングに出かける。

こんなことは、日常茶飯事である。

一日に数回もブログを更新する人たちを見ると、この人たちにとって、文章を書くこととは何なのか疑問に思う時がある。

そして、自分も何のために書いているのか、時々疑問に思う。

だから、多くの人に読まれる文章を書く人の言うことを参考にしてみることにした。

村上朝日堂 (新潮文庫)

村上朝日堂 (新潮文庫)

 

どんな風に書くかというのは、どんな風に生きるかというのとだいたい同じだ。どんな風に女の子を口説くかとか、どんな風に喧嘩するかとか、寿司屋に行って何を食べるかとか、そういうことです。

ひととおりそういうことをやってみて、「なんだ、これならべつに文章なんてわざわざ書く必要もないや」と思えばそれは最高にハッピーだし、「それでもまだ書きたい」と思えばー上手い下手は別にしてー自分自身のきちんとした文章が書ける。

村上朝日堂 (新潮文庫)

このブログを書き始めて3年が経過した。

毎日は続けることはできなかったけど、今こうして書き続けているということは、やはり自分が書きたいからなのだと思う。

時にはかなりふざけたことも書くけど、あぁ名言でたな、と悦に入る時もある。たまに面白いことも書けたと思うことだってある。そんな時は少し誇らしい気にもなる。

ウケてるのが自分だけの時もたくさんあるけど。

でもそれでいいのだと思う。自分が面白ければ。

村上春樹的に言うと、自分の中にまだ手付かずの鉱脈が眠っているという感触も得ている。

だから、気の向くままにその鉱脈を掘り進めて見ようと今は思っている。

確かに文章というのは量を書けば上手くなる。でも自分の中にきちんとした方向感覚がない限り、上手さの大半は「器用さ」で終わってしまう。

それでもそんな方向感覚はどうすれば身につくか?これはもう、文章云々をべつにしてとにかく生きるということしかない。

村上朝日堂 (新潮文庫)

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