羽田空港に降り立つと私の名を呼ぶ声が聞こえた。
「牛様~、牛様~、牛様はいらっしゃいませんか?あっ牛様ですか?」
ジュネーブ空港からドバイ経由で羽田空港に降り立つと私のネームプレートを持つお姉さんが視界に入った。
幻覚だろうか。あれ、おかしいな。羽田空港は最終目的地だったはずだ。
確かに今回アルプスの山々を駆け回り、心身ともに疲弊していたことは否定できない。さらにあまりの景色の美しさに私の精神はこれまでにない高みへと到達していた。
さらにそれを祝福するかのようにエミレーツ航空のお姉さんが並々と赤ワインを注ぐ。
ここは天国だろうか。
「牛様~、牛様~、牛様はいらっしゃいませんか?」
「私が牛ですが、どうかしましたか?」
「大変申し訳ないのですが、牛様のお荷物が届いておりません。お急ぎのところ恐れ入りますが、お手続きが必要となっております」
どうやら私の荷物が行方不明になったらしい。これは初めての経験だ。
もともと私はこのリスクを恐れて基本的には荷物を持ち込みにしているが、今回は7kgの制限があったためやむなく預けていたのだ。恐れていた事態が起こってしまったようだ。
「わかりました、荷物を受け取るところで手続きすればいいんですね」
入国手続きを終えると、キュートなお姉さんが私を待っていた。
「牛様、今回はご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。こちらで税関書類の手続きをする必要がありますのでご協力をお願いします」
「全然OKです。荷物の一個や二個なくなったところでどうってことないし、そもそもあの中にはゴミみたいなものしか入っておりません。いや、そんなことを言ったらゴミに失礼かもしれません、そういう類のものです」
「そうですか、ありがとうございます。黄色の税関申告書類はすでに記載済みでしょうか」
「あぁこれですね」
私は頻繁に海外に繰り出しているので自分用の税関書類をExcelで作成、プリントアウトのうえ、大量にストックしている。
下記からExcelデータを入手できるので頻繁に海外に行く人はおすすめする。
入国(帰国)時における「携帯品・別送品申告書」の提出 : 税関 Japan Customs
この申告書を見てお姉さんははっとしていた。狙い通りである。私は海外慣れしている牛ですよアピールをすることができた。
「はっ、ありがとうございます。ではこちらに記載の情報を転記させていただきます。牛様のお荷物はドバイにあることが確認できています。明日の同じ便で羽田に到着する予定です。恐れ入りますがお荷物の情報を教えていただけますか」
「はい、黒のスーツケースです。中には汗と泥と涙にまみれた衣類が入っており、極めて危険な状態です。このまま劣悪な環境下で二日も放置されると中で腐敗が進む恐れがあります」
いかん、つい余計なことまで口走ってしまった。
「大変申し訳ございません。最短で配送できるように手配いたします。手続きにはもう少しかかるのですが、お時間は大丈夫でしょうか?」
「バ、いやタクシーで帰るので大丈夫です」
いかん、つい強がってしまった。いつも通りバスで帰る予定なのに赤ワインが私の口を滑らせた。もしかしたら交通費とかでるんじゃないだろうか、そんな浅ましい思いも後押しした。
「そうですか、急ぎますね」
ただ聞いただけらしい。
「何か海外旅行の荷物に関する保険などはございますか?もしあるようでしたらこちらで書類の作成も可能です」
「ちょっと待ってください、調べてみます」
困ったときの楽天ブラックカードである。確かこれには海外旅行の預け荷物紛失時の記載があったことを記憶している。やほおしてみよう。
あった、あった、こんな便利な記事を書いてくれる人がいて助かった。
どうやら携行品損害は50万円まで保障してくれることが分かった。でも私の荷物はドバイにあって別に損害を受けているわけではないので適用外だ。
「あの、たぶん大丈夫です、はい」
「ありがとうございます。これで手続きは終了です。何かご質問はございますか?」
「はい、今回これだけ大きな飛行機でたくさんのお客さんが乗っていました。それなのになぜ僕の荷物だけなくなってしまったのでしょうか?これってつまり、その、神様のいたずらでしょうか?」
「今回お乗り継ぎの時間は十分にございましたか?お乗り継ぎの時間が短い場合、まれに荷物が間に合わないケースがあります。だから今回は神様のいたずらとかでは全然なくて、ただ単に運が悪かっただけだと思います」
「何かありましたらこちらまでご連絡ください。それでは一緒に税関までまいりましょう。遅くなりまして大変申し訳ございません、タクシーあるといいですね」
こうしてキュートなお姉さんは完璧な笑顔で手を振って送り出してくれた。
そういえば誰かに笑顔で見送られるなんてことはしばらくなかったな。まさかこの旅の終わりに笑顔で見送ってくれる人がいるとは思わなかった。
うん、悪くない。たまにはロストバゲージするのも悪くないではないか。
重い荷物がなかったからだろうか。
私は長いフライトの疲れも忘れ、軽い足取りで羽田空港を後にした。