「お兄さんはやっぱりIT関連ですか?」
マンションの車寄せにタクシーが止まり、僕が料金を支払おうとすると、運転手が声をかけてきた。
「いや、あの、その、ただの無職です」
(牛ブログをやっているからIT関連ではあるけど、運転手の想定しているIT関連ではないだろう)
「またまたぁ、事業で成功したした人じゃないとこういうとこ住めないでしょ。こんなところにこんな立派なマンションが出来てるなんて知らなかったなぁ、、いつのまにできたのか、、どうやったらこんなとこ住めるんですか、、」
「とにかく成功するまでやるだけです。一回やってダメでも諦めない。何回かやっていると、モーセが海を割って道を作ったように、目の前に道が開けます。そのチャンスを逃さないことです」
「へぇ、そういうもんなのかねぇ、私には一生縁のないことですけどね、へっへっへっ」
運転手が声を上げて笑うと、かすかにタバコのにおいがした。
「僕、東京のタワーマンションに住むのが夢だったんです」
タクシーの運転手は驚いたようにこちらを振り返り、にやりと笑った。
「ほぅ、夢が叶ったのですね」
「はい、まさに夢のようです。ただちょっと変なんです。日常は変わらないのですが、ここに住み始めてから何かいつもの風景が少し違って見えるようになりました」
「分かります。でも見かけに騙されないように。現実というのは常にひとつきりです」
僕は支払いを済ませ、タクシーの運転手に礼を言って、タクシーを降りた。
タワーマンションに住むことが僕の夢だった。
そしてついにその夢が叶った。
僕は一年半ほど都心のタワーマンションに住んでいたことがある。
一生に一度でいいから、東京のタワマンに住んでみたかった。それが幼い頃からの夢だった。
そこにどんな世界が広がっているのか見てみたかったからだ。
もちろん、ここに辿り着くまでの道のりは簡単ではなかった。
最初に申し込んだ物件は、審査が通らなかった。おそらく収入が足りなかったのだろう。
次の物件は、既に2人が申し込んでいて、その二人が何らかの理由でキャンセルにならない限り、僕にチャンスは回ってこない。
ほぼ諦めかけていた。
しかし、幸運なことに立て続けにキャンセルが出た。
そして前回通らなかった審査もなぜかスムーズに通った。まるで見えない力に導かれるように。
あの不動産屋の妙な自信が気になった。
何か裏で工作をしていたのかもしれない。
しかし、結果が良ければなんでもいい。
こうして夢を叶えることができたのだから。
マンションのエントランスを抜けると、ロビーがある。
朝、コンビニで買ったアイスコーヒーを飲みながら、このロビーで新聞を読むのが僕の日課だ。
昼間はコンシェルジェが二名常駐しており、様々な生活のサポートをしてくれる。
一人で大体のことは解決できてしまうので、彼らに頼ることはほとんどない。
朝、外出するときに挨拶を交わす以外はほとんど会話をする機会がないくらいだ。
「いってらっしゃいませ」
「おかえりなさいませ」
最初は心地がいいものの、そのうち挨拶するのも億劫になってくる。
日々を監視されているようで、心が落ち着かない。
10時にここで新聞を読むのも見られている。
昼過ぎにスーツを着て外出する姿も見られている。
あの子と一緒にいたところも見られたかもしれない。
薄ら笑みを浮かべながら、、
いつしかコンシェルジュを避けるようになり、彼らがいない入口から外出するようになった。
こっそりと。
コンシェルジュに見つからないように。。
深夜になると、このロビーの雰囲気はがらりと変わる。
ここにウェイウェイ系若者がたむろしていることが多くなるからだ。
いったい彼らは何者なのか。
IT関連の人だろうか?
しかし、今日はロビーには誰もいない。
本当にここに誰か住んでいるのだろうか。
と思うくらいの圧倒的な静寂に押し潰されそうになる。
ロビーに残るかすかな香水の匂いだけが、人の存在を示す唯一の手がかりだった。
僕はこの空間が大好きだった。
寝静まった深夜に誰もいないロビー。
眠れない夜はよくここに来た。
このまま時が止まればいいのにと願う。
ソファーに座り、高い天井を見上げる。
ついにここまでたどり着いた。
しかし、もう思い残すことはない。
タワーマンションに住むことが、僕の夢だったのだから。
その夢は達せられた。
チーン。
後ろでエレベーターが到着する音が聞こえた。
緊張で身体が少し強張る
だれか、来たのか。この時間に?
深夜二時にこの空間で誰かと会うのは少し気味が悪い。
まぁよい。
このままソファで座ったまま、通り過ぎるのを静かに待とう。
エレベーターホールのドアがゆっくりと開く。
コツコツコツコツコツコツ。
コツコツコツコツコツ。
コツコツコツコツ。
コツコツコツ。
コツコツ。
コツ。
コ。
ツ
。
僕が座っているソファの後ろで、その足音はぴたりと止まった。